単純に応援していた人の気持ちを踏みにじっているから。
……に尽きる話だが、中には
「おかえり~」と歓迎ムード全開だったり、
意見を言おうものなら「涙返せ、お金返せ、時間返せって言ってる人居るけどそんなん費やした自分の自己責任じゃん。」と逆に攻撃してくる方もいる。
まぁ正直インターネットの世界に足を突っ込んでいると、引退宣言をしてもひょっこり戻ってくる人を見かけることは少なくない。慣れてしまってる人は多い。
ただ、だからと言って黙認するべき内容でもないと私は思う。
今回、私がこの記事を書こうと思ったきっかけがある。
件の引退詐欺師が戻ってきて数日後、引退を発表した配信者が出た。
もちろんそれを聞いたリスナー達はなにかを察する
「大丈夫?それ休止のほうがいいんじゃない?」
「戻ってきたときヤバいよ?」
「すっごく叩かれるよ?」
コメントが凄い速さで流れる。
ただ本人は確固たる理由をもって引退を決意したみたいでリスナーが心配するようなことは無さそうに見えたが配信者は次のようにも発言した。
『まぁでも戻ってきてもある意味面白くておいしいかもなぁ~』
勿論この発言は冗談で、本当にそんなことするような人ではないと思う。(初めて枠見に行ったけど。おい絶対すんなよ。)
問題は引退詐欺が「慣れ」を通り越して「面白い」と認識され始めているということだ。
そもそも宣言というのは言わば「決意」というもので、簡単に「放棄」していいものではない。だから今回で言う「配信引退します。さようなら。」「やっぱり帰ってきました。ただいま」という行動は人間として信用がならないのだ。今一度引退詐欺が引退詐欺と言われている由縁を書き起こそうと思いこの文章を作成した次第である。
序盤にも書いた引退詐欺の擁護とも捉えられる
「費やした時間・お金・涙は自己責任だろ」というツイート
はっきり言って私は違うと思う。引退詐欺は景品表示法違反のようなものだからだ。
物事の価値というのはその精巧さで決まるわけではないと私は思う。
例えば、あなたの最寄り駅の休憩所に1枚の絵が飾ってあるとする。誰が描いたかもわからない風景画。
普段だったら目にもかけずそのまま椅子に座り、スマホをいじるだろう。
ただ、その絵が「ゴッホ作」だと分かったらどうだろう。自分でも知っている画伯の風景画。スマホの電源を切り、近くに寄って見てみるかもしれない。
さらにそれが「ゴッホが死ぬ一週間前、病床の窓から見ていた風景を絵にした。」という情報があったら?
果たして最初にその絵を見た印象と今は同じだろうか?最初に「なんか空の色が独特すぎん?」と思っていても「そうかこれはゴッホが死期を予感して見た空の色なんだ」と自分で良いように解釈にしてしまうのではなかろうか。絵の上手い下手なんて関係ない。ゴッホの死ぬ前の絵ということが大事なんだと思う。
このように、物事の価値はそのクオリティだけではなく、その物の状況・背景といった付加価値が合わさって初めて価値として世に出るものなのだ。
では、その付加価値とはどういうものか、
「季節限定」「期間限定」「一品限り」といった「ここで逃したらもう手に入らないんじゃないか」と買い手に思わせられるものが魅力的なんだと考える。更にそれが時間的制約が狭いほど効果的だ。
買おうか買わないか悩んでいる商品があるここで店員に「これ、この1枚で最後なんですよ」と言われたらどうだろうか。
好きなアーティストのラストコンサート行きたいか、行きたくないか・・・と問われたらあなたはどう答えるだろうか。
よって、「最後」という言葉は特に人を惹きつける最強な付加価値なのだ。
さて本題。これを配信者に置き換えてみよう。
「何月何日にHAKUNAを引退します。最後の日まで仲良くして欲しいです。」
「引退枠は○時から行います。最後に楽しい思い出を作りましょう!」
「○○の枠で△△という企画に参加します!最後の参加になるので1位になってみたいです!応援お願いします!」
応援しているリスナーは配信者からの「最後の」お願いなら勿論叶えてあげたいだろう。
最後の日まで少しでも多くの配信を聞くために時間を割いて、企画が投げ銭イベントだったら課金してTwitter等で宣伝が必要そうならリツイートはもちろん、必要ならば動画や画像も作成するだろう。なぜならこの配信者とやり取りができるのはこれで最後だから。
また、「最後」という引力は、そこのリスナーじゃない人も巻き込んでいく。
「○○くん引退するんだ。昔少し絡みあったし、ちょうどその日空いてるから枠見てみようかな。」
「△△の企画でるんだ。最後なんだし無理のない程度に応援しようかな。ギフトも余ってるし投げてみようかな」
こうして「最後」という付加価値がついた配信は一気に注目を浴びることになる。 沢山の人から「最後だから」と応援された企画やイベントは好成績で終えることが出来ただろう。そしていよいよ最後の配信。
配信者は涙を流し感謝の気持ちを丁寧に伝える。普段より口が回らないかもしれない。笑いでいったら通常回の方が上かもしれない。ただ、それでも許される。なぜならこれが最後の配信だから。聞いているリスナーが寂しい気持ちをグッとこらえてこれまであった出来事が綺麗な思い出として昇華出来たのであればそれで良いのだ。
ただ、その思い出がどうだろう。
数ヶ月後にひょこって戻ってきて復帰枠と称したもので、引退枠の音源を流してケラケラ笑っていたら。大事に大事に囲っていたものがトンカチで叩き割られる気分にはならないか?
「最後」と聞いて、作った時間があった。
「最後」と聞いて、投げたギフトがあった。
「最後」と聞いて、流した涙があった。
それを本当に「費やしたのは自己責任」で片付けられるのか。手放しで「おかえり」と歓迎できるだろうか。「複雑」という気持ちがやはり残るのではなかろうか。
自分自身に「最後」という最強の付加価値をつけて売り出したのに数ヶ月後に「最後じゃないです。戻ってきました」は、やはり詐欺と言われてもおかしくないのではないか?
以上、これが私が考える引退詐欺が引退詐欺と言われる由縁だ。
最初にも言った通りインターネットをしているとこういった事象は少なくない。 最初こそ、とやかく色んな人に言及されるが、時間経てば誰も言わなくなるだろう。ただそれは言われなくなっただけであり軽率な行動をしたという事実は消えない。自分を貫いて楽しくやるのは大いに結構だが、少し自分が行った行動を見返す時間も必要なのかもしれない。